Saturday, May 26, 2018

Bancho MIURA 18





三浦 大輔氏
( NPB 大洋ホエールズ ~
    横浜ベイスターズ ~
横浜DeNAベイスターズ 元投手 )

現 横浜DeNAベイスターズ
    スペシャルアドバイザー


ハマの番長。

彼こそ、横浜は大洋ホエールズでの
在籍経験を持つ最後の選手でした。

1992年の入団以降、球団名が
上記の様に2度の変更。

それでも新たな後継球団を通じ
一貫して横浜でプレー。

25年に及ぶ現役生活、全てにおいて
同一球団に所属。

しかもその3球団いずれにも在籍した
唯一の選手。

2016年のシーズン終了をもって、
現役を引退されました。


引退を決意させた最大の要因は、
「 勝てなくなったからです 」と。

その言葉には自身の勝敗うんぬんなど
問題ではない。

何よりファンへ、またチームに勝利を
届け導く投球が出来なくなった。

この想いが集約されているはずです。




1992年 大洋ホエールズ最終戦
三浦氏(左)と遠藤 一彦氏(右)
     ( 大洋ホエールズ 元投手 ) 
        横浜スタジアムにて

 
背番号18。

現代の日本プロ野球界では、各球団で
相違はあれエースナンバーとされる。

そう知られています。

三浦氏も最初からこの番号を
背負った訳ではありません。

入団時は46。

前年ドラフト6巡目、ついこの前まで
高校生でしたから。

その初年度は1試合の出場。

この年は大洋ホエールズとしての
最後のシーズン。

それも横浜スタジアムでの最終の
公式戦、3番手で一軍デビュー。

消化試合とはいえ巨人戦でした。

またこの試合は大洋の大エースとして
長年活躍し、今シーズン限りで現役を
退く遠藤 一彦氏の引退試合。

大洋の最後、遠藤氏の最後。

スタジアムは満員です。

これも巡り会わせでなのでしょう。

試合後の引退セレモニー。

皆々が出来る訳ではありません。

ほんの一握りの選手だけ。

チームのほとんどの選手が涙で
その引退を惜しみます。

その光景に居合わせ、一部始終を
目の当たりにした1年目の青年。

自分も遠藤さんのように引退試合を
そしてセレモニーをしてもらえる
選手になりたい。

そう願い、決意をした決して忘れえぬ
プロ野球選手として記念すべき
最初の登板試合となったのです。










5年後、幾多の経験を重ねその活躍が
認められ、自ら希望したこの番号へ。

18を託されたまさにその1998年、
球団史上2度目のリーグ優勝、
そして日本一に。

その後は押しも押されぬエースへ。

ただ、歩みは順風満帆ではなかった。

日本一を経験したもの、その前後は
常勝とは似つかぬ球団成績。

長きにわたり低迷の時期へ。

この間、横浜のエースとして投手陣の
屋台骨を支えたのが同氏。

通算成績は 172勝 184敗。

とても凄い記録です。

現在、日本プロ野球機構において、
150勝以上記録した選手は52名。
( 日米合算も含む )

メジャーリーグとまではいかぬもの、
長い日本のプロ野球の歴史の中で
たった52名。

そのうち、敗戦が勝利を上まわる
選手は彼を含めて4名。

皆さんには共通点が。

これは投手の大黒柱として投げ続け、
所属チームの戦力に恵まれなかった
時期を経験していることです。




投手として一流の成績を残した同氏。

打者としても世界一の記録を保持。

投手による一軍公式戦、
連続シーズン安打です。

24年連続、これはギネス世界記録。

入団1年目を除き、翌年から引退する
2016年まで毎年安打を記録。

セ・リーグしかも一つの球団に所属。

打撃の技術もさることながら、やはり
横浜一筋。

ここに尽きるのではないでしょうか。














三浦氏の最大の武器は晩年まで
衰えを知らなかった抜群の体力。

そしてルーキー時代より必死の
努力で磨き上げた正確な制球力。

いずれも本人にしかわからぬ
凄まじいまでの鍛錬ありき。

2008年に自身がFA宣言した際も
「 強いところを倒して
          優勝したい 」

と、残留を決意。

横浜そして全国多くのファンの
切なる願いを受け止めました。

何より本人が一番に望んでいた
はずです。

「 俺は横浜の三浦 大輔 」

生粋のフランチャイズプレーヤー。

一つの球団で選手人生を全うする事。

またそれが出来る事。

現在では日本、また米国でも
本当に本当に稀有な存在と
なりました。


そんなタフで鳴らした男にも、
ついに引退の時が訪れます。

それは25年前の初登板と同じ。

本拠地の横浜スタジアム、そして
レギュラーシーズン最終戦。

味方選手は全員、背番号18の
ユニフォームを着用。

特別な日ですので。

超満員のスタジアム全体も
18に包まれます。

この日に限らず、その以前より
横浜市の街も。

引退試合では近年、打者は1打席、
投手は一人ないしは1イニング。

このような傾向で花道を飾るのが
日常的となった昨今。

彼にはこのような常識は
もはや通用しません。

先発投手として最後の登板に
挑む事となりました。

三浦投手にこの試合を託した。

球団史上、初めてのクライマックス
シリーズ出場を決めていますが、
真っ向勝負です。

結果は6回 1/3 で10失点。

自身プロ生活では初めての
二桁失点試合で負け投手。

本人の引退試合で。

「 いっぱい勝って、それ以上に
いっぱい負けました 」

紛れもない真の言葉です。


青年は大人となり大洋ホエールズ
最後の試合で芽生えた誓いを
叶えた。

様々な苦難や逆境を乗り越えて。

壮絶で盛大、何より万感の引退試合、
引退セレモニーでした。

こうなる訳があります。

三浦 大輔選手だから。

誰よりもファンを大切にし、
誰からも愛される。

競技の枠を超え、プロの選手は
こうあるべきとの言動。

以前に一人の人間として。




三浦選手が19年間、着用し続けた
背番号18。

2016年シーズン途中の引退会見で
球団は当番号を準永久欠番に。

これぞ横浜ナンバー。

そしてこれからも三浦 大輔は横浜。

同時に彼は、心の内でこうも思い
願っているでしょう。

再びこの18番を背負う事が託される
選手の出現を。



       
それがハマの永遠番長ですから。

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